先月、実家のお墓参りに行った帰り、久しぶりに子どもの頃の通学路を歩いた。
生まれ育った街には「六道」と呼ばれる場所がある。六つの道が集まることから、仏教の六道になぞらえてそう呼ばれるようになったらしい。近くには通っていた小学校があって、毎朝そこを通って学校へ行き、帰りは友達と話しながら歩いた。子どもの頃は、そこにどんな歴史があるかなんて考えたこともなかった。
後になって知ったんだけど、あのあたりは戊辰戦争の激戦地だったらしい。何も知らずにランドセルを背負って毎日歩いていたのかと思うと、なんだか不思議な気分になる。
「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ」

六道の近くには閻魔堂があって、うちの菩提寺がそのお堂を守っている。
子どもの頃、大人たちによく言われた。「嘘をつくと、閻魔様に舌を抜かれるぞ」。今なら昔ながらの戒めだと分かるけど、当時は本気で怖がっていた。悪いことをした日は、閻魔堂の前を通るのが少し怖かった気がする。何も言わなくても、全部見透かされている——そんな感覚があった。
同じ道なのに、感じ方がまるで違う
先月、久しぶりにその場所を歩いた。同じ道のはずなのに、あの頃とは感じ方が違う。不気味というのとも少し違って、その場所だけ空気が止まっているような、周りとは違う時間が流れているような感じがした。
長い歴史を知ったから、そう感じるだけかもしれない。それでも足を踏み入れると、自然と気持ちが静かになる。子どもの頃は学校に遅れないことと、友達と遊ぶことしか考えていなかったのに、今はそこを歩いた人たちや、そこで起きた出来事の方に気持ちが向く。同じ景色でも、歳を重ねると見え方が変わるものらしい。
閻魔様は、今では鏡みたいなものだ

仏教の六道輪廻——地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天道——は、子どもの頃はただ怖い世界の話だと思っていた。でも今は、これは死後の話だけじゃない気がしている。
怒りや争いに心を奪われれば、そこはもう修羅の世界だし、欲ばかり追いかけていればいくら手に入れても満たされない。誰かを思いやって過ごせば、それだけで少し穏やかになれる。六道は、案外今を生きる自分の心の中にもあるのかもしれない。
閻魔様も、昔はただ怖い存在だった。でも今は、自分の生き方を静かに問い返してくる鏡みたいなものに思える。人に優しくできただろうか。都合のいい言い訳をしていないだろうか。誰かに裁かれる前に、まず自分の心に聞いてみる。そのための存在だったのかもしれない。
夏祭りの記憶と一緒に
そういえば、もうすぐこのあたりで夏祭りがある。子どもの頃は、それが毎年の楽しみだった。提灯の明かり、人のにぎわい、いつもと違う町の雰囲気。閻魔堂の近くを歩きながら、怖い気持ちと祭りを楽しみにする気持ちが、同時にあった気がする。
何気なく通っていた道、怖かった閻魔様、楽しみだった夏祭り。全部つながって、自分の子ども時代を作っていた。
歳を重ねると、子どもの頃には見えなかったものが見えてくる。「嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるぞ」——あの言葉も、今思えば、人をごまかしても自分の心まではごまかせない、という教えだったんだと思う。
これからも、ときどき自分の歩いてきた道を振り返ってみたい。



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